2005年08月22日

本日の藍色的デスティニー論

 さっき、キッズステーションでデスティニーの再放送をやってました。
 今日のはステラとシンの海で出会う話がメインのやつですが、冒頭はアスランがミーアの部屋侵入に驚くやつです(笑)
 やーいやーい、へタレ〜!!・・・いえ、アスラン大好きですよ?

 さて、今日のデスティニー論は、こないだ書いたSUIT CDのアウル×スティングの感想?を書いたとき、草野かをるさんのコメントに、「ファントムペインの三人は、あらかじめ『死ぬ』ということが前提だった」というものがありました(なんかどこか違うかもしれませんが)

 ちょっと、これについて書きたいと思います。

 この三人は、確かに「死ぬ」ということがどことなく出されていましたよね。
 SUIT CDの中でも、アウルがバスケをしてるとき、「戦争が終ったらバスケで食っていけるんじゃないか」みたいなことを言うんです。
 すると、スティングは咎めるように言うのですよ。まるで「戦争が終ったら、なんてのは俺たちにはない」みたいな感じで。
 アウルは「マジになんなって」とふざけて言うのですが、私はすごくズシンと感じました。

 草野さんは、あらかじめ死んだり結ばれたりするのはどうでしょう、とおっしゃってたのですけど(少し違うかもしれません。そうだったらすいません、草野さん)、私としてはそういうのもある時はアリ、じゃないかな、なんて思います。

 コメントのお返事から引用すると。
 この三人が「死ぬ」ことが分かっているからこそ、話にメリハリを生ませているのではないかなぁ、と。
 いえ、三人に死んで欲しいとは思っていませんでしたよ。
 ただ、「この人は話の中で死ぬんだろうな」という存在が一つ(今回は一つどころじゃなかったですけど)あるだけでも、その人に対する見方も変わるし、話の流れも色々と考えさせられるのではないでしょうか。これは、話の展開が分かる、とは別として。
 草野さんは「この人が死ぬの!?」というものがあるからシナリオが生きる、ともおっしゃってました。
 確かにそういう驚きは大切ですし、予定されている死ってのはつまんないものかもしれませんが、私としては行く先が分かる人という存在があってもいいんじゃないか、と思います。

 だけど、これにはそうなる「伏線」というものがなければ、つまらないものに変化しますけどね。
 その辺がしっかりしているからこそ、その行く先が分かる人が生きてくると思うのです。
 
 ステラ達が出る、と知ったとき、「前作の連合三人のようにはなってほしくない」と思いました。
 でも、やはり出てくると、「やっぱり最後まで生きていないかも・・・」なんて思いました。
 じゃあこの三人が死ぬとすれば、それまでにどんな事をするんだろう、どういう生き方をするんだろう、そしてどのように死ぬんだろう、と思うようになりました。

 結果として、ステラは大好きなシンの腕の中で死ぬことになり、アウルは母を思い出しながらも散り、スティングは自分がやるべきことをしながら死んでいった。
 彼らは前作の連合三人とは違い、記憶を操作されるという生き方だったながらも、それぞれの想いの中で死んでいきました。
 なんかですね。な〜んかですけど、それはそれでよかったんじゃないかなぁ、なんて。

 結果が「死」というものは、やはり酷いものだけど。

 ・・・理屈が通ってないような・・・。
 ダメですね、やはり私がそんなことを語ろうと思っても、ダメですわ。
 うわ、批判きそう・・・。
 ごめんなさい(あらかじめ)

 なんか昨日の記事といい、最近暗かったり重い話ばっかり書いてるなぁ・・・。
 次回からは、もっと明るい★ことを書こうと思います♪(大丈夫か)

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posted by 藍色 at 23:51| Comment(2) | TrackBack(0) | デスティニ― | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
うわ〜、ウチのハッチャケコメントを取り上げていただいてありがとうございます〜。
これじゃ、コメントするしかないじゃないかっ!

と、コメントする前に…
細かい違いは気にしてないので、中身が伝われば無問題ですのでジャンジャン間違ってください(ぇ?

では本題。
>死んだり結ばれたり
仰るとおり、ある時は「有り」だと思います。
だけど―――いや、だからこそ、(またしても)仰る通り伏線や下積みが大切なんです。
いきなり死んで「これで悲しんでください」と云われても無理ですよね?唐突に死なれても「え、なんかあった?」としか受け取れない。
ニコルとトールの死は、前にそれらしい下積みがチラホラありました。当然あの二人は死ぬのが前提でしたが、その下積みがあったからこそ、あの瞬間には重みがあったのだと思います。
そのお陰で回想の度に殺されるハメになりましたがこれは余談ということで。

>結果が「死」というものは、やはり酷いものだけど。
例えその結果が「死」であっても、そこに至るまでの道程が満たされたものであるなら、納得はいくでしょう。(ちなみに、ここでの「満たされた」は内容のある登場であった場合を指します)
しかし、種シリーズの登場人物の殺し方は非常に薄っぺらな印象が強い。
一番薄いと思ったのが個人的に好きだったアウルの殺され方。作品が薄いという印象もありましたが、それ以上に「ついで」感が強かった。まるで監督が「お前用済み」と云わんばかりに。
監督からしてみたら、これもエンターティメント
なのかもしれませんが、そこに「面白み」があるかといわれると、ハッキリ云って無い。
何をもって「面白い」のかは人それぞれですが、使いまわしの連続を毎週見せれて面白いと感じる人は少ないと思います。そして、肝心の新作画は本来の主人公ではなく、後でノコノコ現れたマイペース夫婦の片割れ用。キラ派の人達はそれで満足するでしょうが、物語全体を見ると、内容がそちらに偏ってしまい、結果として前作と同じ結果を導き出されようとしています。
持論ですが、同じ内容、同じ展開、同じ結末を描くならデスティニーは放送しなくていいです。時間の無駄なのでちゃっちゃと次の番組に切り替えた方が懸命です。

って、またしても話が大きく脱線した上に獣道を全速力で走ってしまいましたねorz
とりあえず今云いたいことは、「いつまでも前作優遇展開に頼るな」ですね。
そのせいで他のキャラが適当な殺され方をされるのが納得いかないので。
上からの命令もあるかと思いますが、シナリオ担当はキラ達に頼りすぎてますから。

以上、脱線大好きキチ○イ草野からでしたorz
Posted by 草野かをる at 2005年08月23日 02:06
>草野かをる様

コメントありがとうございます。
いえいえ、許可も求めずに記事にしてしまって、すいませんでした(今更かよ)

確かに、二コルやトールが死ぬ場面は使いまわしのしすぎですよね・・・。

アウルのは確かにあっさりしすぎですね。
最後の言葉もなかったし・・・。
もう少し考えて欲しかったですね。
Posted by 藍色@管理人 at 2005年08月23日 21:15
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